ラベル マンガ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル マンガ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年8月1日木曜日

離婚インタビューについて

ヘビーな内容だな、ベビーだけに

Twitterから
7月31日@anony_mous_s


文学の定義のよくある誤解に、私小説的に赤裸々な告白をする態度を、ヒューマニズム(人間の主体性)の問題として捉え、その有無や質によって文学的であるとする見方がある。ひらたくいうと、悩みなき絵空事は非-文学であり、山あり谷ありの人生を真摯に見据えるのが文学であるとすること。

そのような私小説的態度を精神主義的に解釈していくと、ドグマ化して、本人はクソマジメなのに端からは滑稽に映るという状況に陥る。

文学とはこうであるべきで、それは文学ではない、という考え方。これが昂ずると国語のテストで「登場人物の心理にふさわしいものは次のいずれか」という設問になり、ある解答以外は間違いとされる。

そのような文学の受容のされ方は、文学のテクストを一元的で薄っぺらいものにしてしまう。宗教団体や教育団体が作るマンガや、企業が広告のために作るマンガを読んだときに抱く違和感である。神様を信じて財産を寄付しろ、このマンガに騙されて物を買えという話でしかないからである。

これに対して、たとえばバフチンは、ドストエフスキーの小説のように登場人物たちが好き勝手に喋っているような作品には、思考の対話性があり、一面的ではなく多層的であると考えた。そのような文学的効果、あるいは文学作品の性質はほかに類を見ない独自のものであるといえる。

いわゆる現代文学、ポストモダン小説というのも、そのような文学の独自性を根拠とするものである。ラブレー、セルバンテス、スウィフト、スターンらの古典は、そのような文学の独自性を前面に押し出したものといえる。

ラブレーはそのガルガンチュワ・シリーズで、糞小便の話とだじゃれを多用する。叙述される内容はとにかくひどいとしかいえない。描写は過剰で、ガルガンチュワの遊びについての章では数百のゲーム名を羅列している。

トリストラムシャンディではいつまでたっても主人公が登場せず、本筋と無関係な逸話がつづいたりする。文字を言葉としてではなく記号として扱ったり、もはや文字ですらなくページを白紙にしたり絵をのせたりもする。

ロシアフォルマリズムの学派もこのような独自性を面白がり、これぞ小説の典型であるなどと嘯いた。現代文学とはこの系譜にあり、ジョイスとプルースト、そしてポストモダンにつながっていく。

道化における反社会性とは、デリダのいうロゴス中心主義への批判や、決定不可能性ということでもある。現代思想が近代哲学の主体性をくりかえし批判してきた歴史とは、いってみれば宗教や広告の一元的なマンガにたいする批判であり、文学の独自性の宣言でもあるのである。

われわれがそのような立場にあるとき、結婚-離婚という二項対立を強化することはもはやできない。その二項対立に回収されない曖昧なものを否定することになるからである。エロ動画を巨乳/ちっぱい別に分類しようとしても必ずどちらともいいきれない乳房が存在するものである。

それはたとえばバトラーのいう、セックスとは生物学的な性であり、ジェンダーは非-生物学的で文化的な性の定義であるとしたとき、結局は生権力(フーコー)の論理によって男/女というセックス(性)という神話を強化するものにすぎず、その二項対立による女性差別を強化するのではないか。

そのような意味において、件の離婚インタビューは、別れた元夫婦が赤の他人どうしを演じることによって、夫婦/他人という二項対立に回収されない領域にある何かを表現できるかもしれない。

離婚について軽々しく語るべきではない、別れた配偶者を悪くいうものではない、あるいはそのようなデリケートな問題を茶化すものではない。そういった言説は、一見すると倫理的に尤もらしく聞こえるが、実際は離婚をタブー化して、離婚した人間を悪いものとする、目に見えない権力の意志が働いている。

作家が自分の人生を切り売りするがごとく作品化するのは、人生にたいして厳しい態度で臨むといった精神主義故ではない。社会の規範から外れた道化を、自分をモデルとして創造しているのである。ルネサンスの道化文学であるラブレーやセルバンテスから続く諷刺である

(なお私は件の記事を最後まで読んでいないし、BJによろしくは新シリーズまで楽しく読んだが、作家の人柄などについては知らない。そもそもあの記事が事実かどうかすら知らないし、他人の醜聞にはあまり興味がないので、事実誤認はあるかもしれない)

さて、婚姻契約を破棄したら、元夫/元妻という関係性の呪縛からなるべく逃れたいものであろう。他人/他人になれば気が楽だから。 ところが件の夫婦には子供がおり、 彼らはその子の父母であるかぎり完全な他人どうしには戻れない。彼らはもう夫婦でもなく他人でもない、別の何かなのである

もちろん、夫婦であり他人でもあるキメラ的存在ということもできる。いずれにせよその両義的で曖昧な関係性は、彼ら自身がインタビュアー/インタビューイを演じることで自己言及的に強化され、その関係性に潜む矛盾を否応なしに暴露していく。

記事の途中で、インタビュアーの夫が、それまで赤の他人を演じていたのに、子供の話になると唐突に元夫として語り出すところがある。曖昧である関係性がさらに強調されるこの箇所は、なかなか泣かせるところで、オイディプス王の演劇のように「わかりきったことであるがゆえに」ますます悲劇性を強める

ところで、離婚の原因をそのまま信じれば、奥さんがあまりにも気の毒である。特に夫のほうが「自分の意見を言わず、彼女自身はどうしたいのかと訊くだけ」という人としてどうしようもないマンガのセリフを引用しながら、リアルでも同じことを言っていたという話を対照させるのは、さすがに面食らったw

私の文学観をきけばわかるとおり、私は由緒正しい左巻きである。結婚制度どころか国家そのものを批判し、近代の合理主義や科学とは人間性を蹂躙するものだと批判し、いっそのこと人類を滅ぼすべきだと考えている。そんな私でもマンガのあの当該引用にはドン引きである

もう眠いので続きは明日でいいですか

細かい間違いは適当になおして

でもあの、作家/作家という関係性になれば、本人たちは少し癒されるじゃないですか。たとえそれが道化でありまやかしの記号に過ぎないとしても。それゆえに奥さんもこの企画受けたんでしょ。多分。違うかもしれないけど。

まあインタビュー記事でぶっちゃけ過ぎたことでたとえ少しつらくても、離婚したこと自体に比べれば別に大したことじゃないから、そのへんは別にいいよね。それより、関係性の問題に言及せざるを得なかったのでは。
文学的にはまあそういう観点から見ます。おわり。

2013年3月7日木曜日

最近読んだマンガおすすめ(1)

[河原和音×アルコ] 俺物語!!
「俺物語」はそんなに変わった話ではない。むしろ、ベタだから面白い。
猛男の類人猿のような容貌が、今の価値観(少女漫画の文脈の価値観)では女性の好みから最も縁遠いと思われるからこそ、ベタなセリフを乗せられる。
10代の頃の単純な愛の言葉、単純な気持ち、単純な行動は、歳をとって恋愛に失望しかけると青臭く陳腐に映るか、あるいは過ぎ去った思い出を懐かしむきっかけにしかならない。当の10代の読者が読んでも、彼らもすでに恋愛がそう単純なものではないと気づき実際に体験しているので、きれいごとと同じく薄っぺらいものとしか感じられない。
ところが猛男がそんな愛の言葉を放つと、最初は醜男と純愛という奇妙な取り合わせを愉快に感じるだけだが、そのうち「醜男」という歪んだ見方が消え去り、純粋な気持ちだけが後に残る。化学実験なのである。
猛男が見た目と裏腹に純情であるとか、大和の脳内フィルターは猛男のことをどう変換しているのかとか、この作品にはそういった細かい楽しみが無数にあるが、それにくわえて上記の化学実験で得られたまっすぐな愛のセリフが胸に心地よい。
猛男いわく
「好きだ」
この一言を心から味わうための作者の創意工夫であり、それが人気の理由の一つなのだろう。

[椎名軽穂] 君に届け
爽子も風早も実にうっとうしい。人は誰もが、思うように心を開けず、惑い、苦しむ。でも少しでも心を開けたらいいな。っていう成長物語を楽しめるのだが、最近は爽子の成長ぶりにたいして風早の幼さがじれったい。

2013年3月6日水曜日

最近、少女漫画が面白い。

最近、少女漫画が面白い。BLでもなく、SFでもなく。日常から逸脱しすぎた妙なDQN展開でもない、甘酸っぱい恋愛を主軸にした少女漫画のほうだ。
BLは少女漫画を同性愛という記号で置き換えることによる少女漫画との差異が面白いが、少女漫画ではないのでここでは除外。
SFは作家が少ない。少女漫画の絵でもっとSFを読みたいぞ。
DQN展開は、へたにDQN要素を絡めるとヒロインが強姦されたりして後味が悪くあまり好きではない。
あと、年寄りの恋愛は、俺は「黄昏流星群」なんか大好きだが、これも少女漫画ではない。こやまゆかりのメロドラマ的な作品も、わりとむちゃくちゃな話や展開を楽しむものであって、少し違う。ヤマザキマリの地球恋愛なんかは少女漫画的な楽しみがあるな。
まあともかく10代の人間が恋をする話を読みたい!

そもそも恋愛って概念は近代西欧が創りだした幻想で、現実的にも本質的にも夢物語なのだ。だいたい、性欲と結びつくと、好きなのかやりたいだけなのかわからなくなるし、生活と結びつくと結婚に至らなかったりする。恋愛結婚して、永遠の愛を誓って、最後は離婚。ギャンブルや悪徳商法による破滅への道程とあまり変わらないではないか。
宗教と同じで、いもしない神様に一喜一憂し、神様をだしにしているだけの、壮大なカルトの一つといえる。
でも確かに人を好きになることはある。生物学的に考えても、ほとんどの動物が恋愛的な好きという感情をもっているとすら思える。俺が飼っている猫は俺のことが好きみたいだし。好きとか嫌いというのは、お腹が空いたとか、怖いとか、そういったベーシックな感情の一つだろう。
やっかいなのは好きになる気持ちではなく、好きになってからの気持ちや行動や結果がおおむね良くないことである。かわいい子猫だと思って拾った動物が実はとんでもなく恐ろしい人食いの化け物だったようなものだ。そしてわれわれは恋愛に絶望する。恋愛そのものは美しいと未だ思えるのだが、そんなうまい話は現実にはないのだなと気づくのである。
まあもちろん死ぬまで愛し合う幸せな人たちも多いが、そんな健康な連中のことはほっとこう。俺は病をわずらう患者なのだ。